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私の 趣味と、仕事との関係などを書いて見ました。
最初のラジオ受信機 昭和20年終戦間際、徳島県の片田舎に生まれる
小学5年生の頃、今は廃校舎になった小学校の図書室で見た、"子供の科学"を見て徳島ラジオ店で購入した鉱石ラジオキットを作る。鉱石検波器をゲルマニュームダイオードたしかSD46だったと思うがこれに交換すると格段に音量が上がってびっくりした。さらにトランジスタで増幅しクリスタルスピーカーに付け替えると結構大きな音で鳴った。実用的な音量になった。山の上に持って上がるとガンガン鳴った。こんなことをしてあそんだ記憶がある。その情報源は初歩のラジオや子供の科学。友達はサブミニチュア管を使った組立キットを買って組み立てていた。そのころの実用的ラジオはST管で6WC5とか80BKとか使った5球スーパーが主流だった。
BCL 中学生
家の5球スーパーで暫く国内の中波ラジオ放送のBCLをやっていた。はがきに受信報告を書いて送りベリカード(受信証明書)をもらうのだが各地の名物や祭りの写真などで構成され美しいカラーのものが多く楽しかった。初めてこの頃短波帯の3.5MCや7MC(今のHz)でアマチュア無線を聞く。電話級アマチュア技師の資格が出来た頃で受験したかったのだが松山まで行かなければならず、断念した。
ステレオ放送 中学生〜
またNHKの第1と第2放送を使ったステレオ実験放送があり,2台のラジオを並べて聞いた。本当に立体に聞こえるのだから驚きであった。列車の音など目の前を通り抜けるのだから身の毛が逆立つ驚きであった。FM放送はまだ無い。45,45度のステレオレコード盤が普及しだした時代。 実はこの頃、運動が得意でした。陸上競技ですが棒高跳びでは徳島県中学ランキング4位!
ハイファイHi Fi に傾斜 高校時代
高校時代は無線と実験誌などの雑誌を読みふけり、最初のオーディオシステムは6BQ5シングルモノラルアンプナショナル8PX1大型自作バスレフスピーカ。ソース源はAMラジオ。小6.の時、友達の父親が2A3_PPのモノラルアンプでローハイドのレコードを30センチウーハで障子をびりつかせていたのが目覚めたきっかけであった。舟木和夫の高校3年生〜の時代でした。
無線学校時代に 東京オリンピック 名古屋時代 昭和39年
新幹線は無く在来線で名古屋へ。聖火ランナーを見送る。FMはまだ実験放送時代、トリオのFMチューナパック、マルチコイルキットで6BA6とかを使ってMT管FMステレオマルチチューナーを作る。1球真空管12AU7ステレオヘッドフォンアンプを自作し寮で聞いていた。まだラジオがトランジスター化したばかり。テレビは真空管のみの時代。カラー放送が一日に数時間だけ放送。
就職
名古屋のアンテナメーカーに就職、UHFコンバーター、おもちゃの超再生トランシーバーなどを作っていました。初めて自分で設計らしきことにたずさわる。この頃低音にMFBスピーカー8PZ1を使った垂直テレビ球OTLアンプ、3Dシステムを作る。フォスターのFE-103の壁掛けスピーカを左右に使う。いい音がしていたが会社を辞めるとき友人に一式進呈して来た。私はオーディオマニアではなく、作る楽しみ実用的な高音質の追求のようなもので私の性格かも知れません。仕事のついでに電話級ハムの免許を取る。
Uターン就職 アポロ月面到着
徳島の田舎に帰る。家電メーカーの現地販売会社に就職する1年程前。家電メーカーに再就職するまで中学の時封印していたHAMを再開。蓄積していたトランジスタ技術を駆使、JA5CPHとして50MHzAMトランシーバーや430MHzオールトランジスタSSB送受信機などを自作し鉄塔を建てて大阪市内、名古屋の方々と交信していた。1975年頃のCQHamラジオにも投稿依頼がきて出稿。正月号を飾った。その紙面は引越し等でなくしてしまった。
転勤 パソコン時代に突入
会社が四国統合となり、新居浜転勤。趣味は会社中心になる。パソコンに転向MZ80KがスタートあとはX1turboに至るまで。そこからはパソコンからも離れる。PC98時代は遠ざかる。AXからWindows dos/vになってから、再び自作の虫が湧き出す。MZ80K時代からいままで隔世の感がする。いまこうしてキーをたたいている自分があの時想像できたか?でもそんな誰でもが使える時代が来ると予感はしていた。あらゆる家電品や電子機器にマイコンチップが乗る時代が来ますよなんて知ったかぶりして言ってました。会社は全国統合となり松山から広島へ転勤。平成になってJA5CPHででたらアンカバと言われる。電波法が変わり免許更新が必要だったらしい。徳島時代からかれこれ30数年QRT。
90年代から 
会社ではコンピュータ関連のある特別な保守の仕事に特化。(人にやらせなかった?)シルバーセンターと社内で呼ばれた事もありました。退職するまで現場でやってきました。奥深い技術は無くても正直過去の自分の技術の蓄積、その放出でやっていただけ。この間は進歩は無かった。がやりがいのある充実した仕事でした。2005年定年退職であっさり切られましたが。パソコンはこの間自作を繰り返し、活用はしていたほうだと思う。組織内ではシステム化されないと個人のパソコンの活用などは認められなかった。ソフトウェアに関してはこの間余り進歩もない。Webなどはこのホームページビルダーを使うだけでおたおたしている自分がはずかしい。もうこの歳になってやることはないと思っていたがこれだけは世間との窓口なのだと自分を納得させている。
 
振り返ると
小学生のとき鉱石ラジオに胸ときめかせた自分があの時カラーテレビが見える時代が来るとは思いませんでしたし、MZ80Kの頃、今のデジタル化時代が来るとは予想だにしませんでした。

名古屋時代に名工大のとある友人の研究室で見たELプレートは有機ELディスプレイとして40年後の今、実用化されようとしている。

自分はこの戦後の急成長時代を駆け抜けてきた人間なんだといまさらながら思う。その歯車のひとつに過ぎなかったが。いま何もかもデジタル化しつつある時代の真っ只中。デジタルなどという言葉などなかった少年時代すべてアナログの時代に育った私にとって懐かしいセピア色の世界でした。
 
それは遠く地平線のかなたに過ぎ去ってしまいました。いまテレビCMで流れている私が名古屋時代、FM放送で聞いたジェットストリームのミスターロンリー。深く心にしみいります。
 
 子供の頃から変わらないのは大人になったらカメラマンになるか電機の仕事がしたいと思ったこと。
 電機屋になって定年を迎え、いままた童心に帰ろうとしているのです。夢幻飛行 城達也                      
 
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